コラム

愛する人の死を乗り越えることなどできない

愛する人を失った人は誰しも経験があるかもしれませんが、よく「死を乗り越える」という表現が使われています。

しかし正直申し上げて、私自身はこれまでずっと、この言葉に違和感を感じています。

なぜなら私自身、愛する人の死を乗り越えたという感覚など何年経ってもまったくないからです。

そして「どうやったら乗り越えられるんだろう?」と間違った自問自答を繰り返していました。このせいで、とても苦しくなってしまったのです。

この言葉の違和感の正体について綴ってみたいと思います。

 

「愛する人の死を乗り越える」からくるイメージ

そもそも、「死を乗り越える」という言葉から私が何をイメージしているのかをお伝えします。

それは「愛する人をまたいで前に歩いていく」というイメージです。

walking tour という動画をご存じでしょうか。私も何度も何度も見て涙した動画です。もしご存じなければご覧ください。

 

この Walking Tour では、亡くなった人が立ち止まり、生きている人の人生は続くという死別を表しています。それでも亡くなる時には、すぐそばにいるんだよというメッセージが心の救いになったものです。私自身この動画によって救われた一人でもあります。

しかしながら(この動画にもそんな表現は一切ありませんが)なぜか人は「乗り越える」という言葉を使います。恐らくあらゆる困難な恐怖を前に勇気をもって立ちむかい、そして乗り越えるということを言いたいのだと思います。

ただ残念ながら死別体験は自分たちが望んでいたことでもなく、且つ、これまでに経験したことの無い不安や恐怖、後悔などのありとあらゆる負の感情が湧いてくるため、立ち向かう体力も気力もゼロでした。(だからこそ困難だ、という人もいるかもしれませんが、これは個人差があることなので一概に決めつけることはできません)

つまり、そんな簡単に「乗り越える」などというセリフは使えないという事です。

本人が無意識的に使うケース

一方、死別直後などではグリーフに関する知識も浅く、自分を守る、ケアするという意識もありません。そこで’(無意識に)無理やり「乗り越えよう!」と自分を鼓舞することもあります(男性に多いかもしれませんが)。

この場合、それまでの習慣で無意識に「死別は乗り越えるもの」として認識しているため、当然その言葉が口から出てくるわけですが、実際には乗り越えるなんてできません。

ゆえに、無意識に使うことは危険だと思います。

周囲が励ます言葉として使うケース

さらに周囲が「いつまでも悲しんでいたら亡くなった人も浮かばれない。乗り越えなきゃ」みたいなことを言うケースが多い訳ですが、それによって「グリーフは乗り越えるものだ」という意識が強くなるケースもあります。

間違った励まし方としか言いようがない訳ですが、経験したことが無い人にはこれしか言えないというのも事実です。根底には「励まさなきゃ」という意識があるためです。

「前に進む」「打ち勝つ」のような前向きな言葉が似合わない

このように私は「乗り越える」という言葉はあまり好きではありません。

これが勝ち負けの世界だったらどうでしょう?勝負の世界では僅差で負けても、負けは負け。それは甘んじて受け止め、前進しなくてはならない。

だからこそ勝負の世界ではありとあらゆる困難こそ乗り越える対象であり、乗り越えたからこそ栄光が待っているわけです。

しかし死別、喪失体験は違います。勝ち負けではありません。「愛する人の死を乗り越える」としたとき、それは「負けてるから乗り越えないといけないんだよ」と言われているのと同じですよね。

そんなおかしな話はありません。このユニークな体験は、勝負の世界の話ではなく、淡々と続く日常の話なのです。誰も負けてもいないし、誰も勝ってもいません。

この前提のズレに気づかずに安易に「乗り越える」なんて言葉は使いたくないというのが本音です。

※もちろん未経験の人と話すときに「妻と死別しまして今は乗り越えましたけどね」と前向きアピールする際に、便宜上使うことはあります。その方がドラマティックに聞こえるみたいだし、それで損することはないからです。

ただ、実際はそう思っていません。

つまり、変に「乗り越える」「打ち勝つ」「前進する」といった前向きな言葉はグリーフには似合わないということです。

※ちなみにこの発想は、死別後10年以上経過して自分の中である程度答えが出ているからこそ言えることであり、死別直後の方にはお勧めしません。「乗り越える」という言葉を全否定するくらいでいいと思います。

 

本当は「愛する人の死を受け止める」こと

では、「乗り越える」のでなければ何なのか?ということですが答えは簡単です。

「愛する人の死を受け止める」ことです。

補足すると「受け止められるような状態になること」です。これが個人個人の(ひとまずは)グリーフのゴールでしょう。

泣き続けたり、叫んだり、歌ったり、カウンセリングを受けたりといった日々の行動は、この「愛する人の死を真正面から受け止める」ための準備なのです。

「愛する人が死んだ」という事実を受け止められないから、苦しいし辛いわけです。自身の生活を乱し、失い、そして残ったのは絶望と喪失感だけ。

そんな状態からのスタートで、ゴールは「受け止めること」だとしたらどうでしょうか。「乗り越える」よりも自然な感じがします。

受け止めるとはどういうことか

では「受け止める」とはどういうことなのでしょう。

これは実は個人差があるので答えはありません。しかしあえて一般化していうとすれば、

「大切な人、愛する人のことを思い出すとき、悲しみの涙だけでなく笑顔になれること」

だといえます。

どうしても哀しみに覆われているときには涙が止まりません。しかし、徐々にグリーフプロセスが進み、理解度が高まってくると、愛する人の人間臭さが見えてくるようになり、やがて全人的に見ることができるようになります。

「ああ、こんなバカな部分もあったなぁ」と思い、フッと笑顔になる。(と同時に寂しい)

そんな感情の揺れが出てくると思います。

色々な角度から愛する人を見ることができるようになったというのは、つまりこちら側の受け止める器が大きくなったということですから、それこそが「受け止める」ことにほかなりません。

今日はそんなことを思いながら過ごしています。

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dan325

10年ほど前に妻を癌で亡くしました。若年死別経験者。愛する人や大切な人の喪失や死別による悲嘆(グリーフ)について自分の考えを書いています。今まさに深い哀しみの中にいる方にとって少しでも役に立てれば嬉しいです。

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