グリーフの知識

生とは

生と死は、すべての人間にとって根源的なテーマですが、ここでは「生」について取り扱います。

自分なりに「死」を理解すれば「生」が見えてきます。また反対に「生」を把握できれば、「死」の輪郭が見えてきます。つまり「生と死」は人間をはじめとした生きとし生けるものにとっては、常に表裏一体の関係であるということです。

愛する者の死後、グリーフという文脈での「生きる」ということは、「その後の人生の再構築」そのものです。しかし、「人生を再構築する」というのはいったいどういう意味でしょうか。その理解を進めてみましょう。

生も死も連続している

生と死は表裏一体だと申し上げましたが、異なる表現を使えば、生と死は連続しているということです。生きとし生けるものはいつか必ず息絶えるときがやってきます。

そしていくつかの宗教では、生から死へ、死から生へ生まれ変わる(転生)と言われています。

生、死、生、死と常に連続しているのであり、この「今生」は何度目の「生」なのか分かりません。

前世療法や胎内記憶など、生まれる前の記憶を持っている人たちが存在するのは、人は転生をするものだからという証明になると言われています。これはグリーフという観点、特に日本人の宗教観からすれば、大きな救いになる方も多いのではないでしょうか。

なぜなら「次に生まれ変わる時には今世よりももっと幸せに」「そしてまたあの人と一緒になりたい」という願いを込めることができるからです。

「生きる」とは他者との関係性

生きる-特に自分自身の生だけでなく、家族や夫婦、親戚や友人といった身近な人々の「生」は、時間をかけてそれぞれの関係性が深く影響しあい、結びついています。その中で、特に家族や夫婦の場合に絞って考えてみましょう。

自分の家族というのは、誰にとっても大切な存在の人たちの集合体であり、それぞれの関係性は日が経つに連れてずっと深いものとなっていきます。いわば「絆」と呼ばれるものが関係性の根底に根付きます。

それはたとえ血がつながっていなくとも(夫婦)、血縁関係にあっても(家族)、愛情という絆が強い関係性を担保してくれるということです。「血より濃い絆」という表現があるくらいです。

愛する伴侶や親兄弟など、大切な人と生きるというのは、この絆(関係性)をより強くすることだと言えます。

「星の王子さま」の作家で有名なアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは、「人間の土地」というもう1冊の名著の中でこう述べています。

愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向をみることだと。

aimer ce n'est point nous regarder l'un l'autre mais regarder ensemble dans la même direction

この通りに大切な人と同じ方向を目指し、日々を過ごす事が愛することだとしたら、まさにこれが「生きること」と言っても過言ではありません。喜びも悲しみも分かち合いながら、お互いを信頼し、尊敬し、自らの成長を促すことによって、時間の経過とともにより深い関係性を構築することができるのです。

これは自分と他人とで作り上げる、人生において最も崇高な活動ではないでしょうか。

大切な人が亡くなっても「生きる」とはどういう意味か

ところが、人生とは不思議なもので計画したとおりに必ずうまく行くという保証はどこにもありません。「思いもよらなかった出来事」や「想像の枠になかったこと」が起きるのもまた人生です。

例えば、グリーフに限定せずとも人工知能(AI)の発達など、テクノロジーの進化や発達は、予想だにしない方向が見いだされたり、自然災害や天変地異はどんなに予想してもその通りになりません。

それにも関わらず、私たち人間は1秒先を必死に予想しようとします。過去の蓄積と経験、法則によって予測はできても 100%の未来を得ることはできないと分かっているのに。

「不確実な未来」に対して良くも悪くも期待してしまうのです。

そして、その期待が外れてしまう出来事のひとつが「大切な人の死」です。

病死であればその前兆(病気の発覚)がありますし、自死や事故の場合はある日突然やってきます。誰一人想像すらしていなかったものであり、まさに青天の霹靂です。

大切な人が突然この世からいなくなる。自分の隣にいた人の姿かたちが見えなくなる。私たちがそのショックに耐えながら生きなければならないのは何故でしょうか。後を追って死んでしまいたくなったり、生きる意味を失ってしまうことはおかしいことなのでしょうか。

冒頭のように「生きることは関係性の中で育まれている」としたら、その関係性そのものを失った場合、生きる意味や理由はいったいどこにあるのでしょうか?

大切な人を失うことは、遺族、当事者自身の「生きる意味の喪失」となります。

「それでも生きていく」という言葉を使うなら、それはただ単純に呼吸をすること=生命活動の維持なのかもしれません。何か大きな目的や目標をもって日々を精一杯過ごすといった人生ではなく、「強制的に生かされている」という時間の使い方になります。

能動的だったはずの人生が一転して受動的なものに変わってしまうのです。

それを生きているとするのか、それとも死んでいるも同然だとするのかは、個々人の価値観による解釈でしかありませんが、「生」とはいったい何かという問いに対してはまさにこの「自分自身の価値観」を問われているといっても過言ではありません。

そしてこの「価値観」こそが大きなキーワードとなります。

自分の価値観と大切な人の価値観

 

想像してみてください。人は誰しもが自分が大切にしている考え、感覚、思考やポリシーを持っています。

愛する人、大切な人を失った時に自分自身すら壊れてしまうような、亡くなってしまうような感覚に襲われます。そんな中でも生きていかなければならないとすれば、私たちはいったい何に依っていけばいいのでしょうか。

この問いに対する答えの前に、死別直後はついつい自分のことで精いっぱいになって忘れがちなのですが、愛する人自身にも大切にしている価値観があるということです。

つまり、自分だけではなく、相手にも価値観があって生前はその違いでぶつかることもあったのかもしれないのです。

ということは、私たちが生きていく中で、大切にしなければならないのは自分自身の価値観と大切な人の価値観の両方なのではないでしょうか。

さらに突き詰めていくと「大切な人は亡くなってしまったけれども、大切な人と共に生きていく」というのは、相手の価値観や考えを自分の中に取り込んでいくということでもあります。

 

だから「死ぬまで生きる」を選択する

これまでも世界中で多くの人が大切な人を失ってきました。

それでもなお生きることができるのは、このような「生きる意味の喪失=自己の価値観の喪失」から時間をかけて「人生を再構築」するからであり、「自分自身の再構築+大切な人の価値観との融合」が重要になります。

こうやって時間をかけて「人生を再構築する」行為そのものがグリーフワークであり、自分自身の哀しみに対処し、大切な人の死を受け入れることに他なりません。

自分の大切な人が亡くなってしまったという事実から、自分自身の価値観を問われ、「本当に自分自身がどうしたいのか」という疑問を自分自身にぶつけ続け、ようやく見えてくるものがあるとしたら、それこそが「生」なのでしょうし、見つけた答えが生きる意味、生きる理由になるのです。

必死になって生きるためには、自分の価値観を通しての「生」の理解が必要です。そしてその揺らぐことのない価値観の中で死ぬときが来るまで「生きる」ことを選択したら必ず光が見えてくるのだと思います。

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dan325

10年ほど前に妻を癌で亡くしました。若年死別経験者。愛する人や大切な人の喪失や死別による悲嘆(グリーフ)について自分の考えを書いています。今まさに深い哀しみの中にいる方にとって少しでも役に立てれば嬉しいです。

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