先日、Twitter で以下のようなつぶやきをしました。
「生きている」と「死んでいる」の違いは、言葉以上に大きいし、その事実に圧倒的に打ちのめされるのは間違いない。グリーフっていうのはその生と死の境を自分なりに埋めて橋を作っていく作業のことかもしれないなと思う。#死別
— dan325@若年死別者のためのグリーフ情報 griefportal.net (@dan3256) May 25, 2021
投稿してから自分でも「なるほどな」と思ったわけです。確かに自分は生と死の間の大きな深い溝に嵌って(はまって)動けなかったし、抜け出すことなんて到底無理だったなと。
それがいつしかそこに自ら嵌ってしまうのではなく、橋を架ける行為をし始めたなと。
そんな風に思えるようになりました。
「死」が起きてから橋を架ける
そもそも、妻の死が発生しないとこんな考えには至らないし、グリーフなどという言葉にも巡り合わずこうやって Web を書くことも無かったわけです。
そういう意味では、死はすべてを奪ったけれども、何かしら生まれるきっかけでもあったなと(今は)思えるわけです。
話がそれてしまいましたが、結局のところ「死」というイベントが発生してからでなければ、グリーフプロセスもグリーフワークも始まらないということです。
それはつまり受動的なところからスタートするわけです。そしてそれが個人的には「圧倒的に不利な状況」なんですよね。
そこまで分かっているにも関わらず、この不利な状況をひっくり返す事もできず、ただただ殴られて蹴られてボロボロの状態まで追い込まれてしまっているため、反撃など到底できるはずもなく、ひたすらに自らの人生を呪うようになります。
反撃の糸口を探すために、本を貪り読んだり、セミナーやサポートグループに参加したり、カウンセリングに通ったりとありとあらゆることをしてきました。でもそれが良かったんだと思います。
こんな風に死別や喪失体験を(ある程度)冷静に見られるようになったのは大きな収穫だし、それを(拙いですが)表現できるように、誰かに伝えようと思えるようになったのも良かったと思えるのです。
そういう前提からの「グリーフは生と死にある間に橋を架けていく、もしかしたらそんな行為なんじゃないか」と思えるようになったわけです。
グリーフは生から死へのプロセスをなだらかにする行為
人は必ず死にます。愛する人であってもそうでなくても、自分自身も100%完全に死を迎える瞬間があります。それに直面している人、支える人、自分は関係ないと思っている人など状況によって様々ですがこれを避けることはできません。
生きている状態から死んでいる状態になるのは大きな転換点だと思いますし、実際に自分がそうなってみないとその後のことは分かりません。
ただひとつ言えることは、遺族の立場からはその生から死へのプロセスの間にある大きな溝に対して、死別後にじっくりとスモールステップで橋を作っていく事で、向こうにいる愛する人への想いを安定したものにする行為が、いわばグリーフワークであり、グリーフプロセスなのだろうという事です。
橋は一人では作れない
そして、橋を作る、橋を架ける行為はひとりではできません。
基本は自分で考え行動するしかありませんしそれは変わりません。しかし、補強してもらったり、材料を集めてもらったりということは周囲の手助けを得ることでスムーズになります。
自分以外の誰かに「橋を作って」と言っても、それは自分が望む橋ではないかもしれません。だから自分でやらないといけないのですが、実は、橋を架ける作業は、実は愛する人が向こう側からも手伝ってくれているんじゃないかと思うのです。
生前も、同じく汗を流して共に時間を過ごしてきている訳ですから、死してなお、向こう側から手を差し伸べてくれているように思います。だからこそ私たちはギリギリのところでも生きていけるし、亡き人との絆を結びなおすことができるわけです。
予期悲嘆はその助走にはなる
ちなみに、予期悲嘆と実際の死別による悲嘆はあきらかに異なりますが、哀しむ行為の始まりとしてはいわば導入時期、助走のような役目を果たすのかもしれません。
「まだ生きているのに哀しむなんて薄情だ」と思っていましたがどうしてもそれを抑え込むことはできず、一方で「そんなことが起きるわけがない」と強く否定する自分もおり、混乱はすでに始まっていたのだと思います。
ただ、そういう時期が無駄かといえば、決してそんなことは無く自分自身にとっては必要なことであり、それがグリーフの入り口だったのだと思います。
橋を架ける材料
これは固有性が高いのですが、主に愛情、涙など感情における部分や、ナラティブアプローチによる理解、認知行動療法、グリーフ理論などアカデミックな材料もあるかもしれません。
亡き人との関係性を紡ぎなおすわけですから、様々な材料を必要とするのは当たり前のことでそれらが一度に全部そろわなくても、あとから補強する材料として追加できますしその分より強固な橋になります。
そうです。
私たちは生と死に阻まれてしまいましたが、愛するあの人との間に、愛や優しさであふれる橋を架けることはできるのです。
今日はそんなことを想いながら過ごしています。