突如、死別による喪失から悲嘆の中に放り込まれ、茫然自失の中からマイナススタートで自身の人生を再構築し、時間をかけてそれなりの形を作ってきたはずが、実は哀しみを昇華しきれておらず、ずっと悲嘆に暮れるというケースもあります。
いわば、「哀しみの中にいたい」という欲求です。
死別直後は早くこの状態から抜け出したかった
自分自身を振り返っても、死別直後はあまりにも大きな哀しみで全体像を捉えることができず、しかも大きすぎたものを突然押し付けられたと感じていたため、その状況から早く抜け出したいという気持ちが強くありました。
それは妻のことをないがしろにするということではなく、早く哀しみを消し去りたいという欲求や願望でした。そのためにどうすればいいのか、この状態が続いてしまえば自分自身の生命の危機さえ感じていました。また「そうなったらそうなったで、それでもいいか」と思う自分も同時に存在していたのも覚えています。
しかし現実は「愛する人の死」という単純な事実が目の前に横たわり、1日が非常に長く感じられ、かと思えば次の日はあっという間に1日が終わり、気づけば朝だったり、夜だったりという時間感覚を失ってしまった日々がしばらく続きます。
体力は削られていき、精神的にもかなりギリギリの状態が続いていました。
誰かに助けを求めつつも自分ではどうしていいか分からない混乱の時期から抜け出せなかったのです。
時間薬という嘘
一方で「時間が経てば解決するから」というようなズレたアドバイスもチラホラもらっていたので、「とにかく耐えるしかない」的に頑張ってみましたが、結論から言えば、そのアドバイスは間違っていました。
「○年経ったから楽になった」わけではなくて、ずーっと考えてもがき続け、自分なりの答えが見えてきたから落ち着いているわけで「時間が解決するから」っていうのは同意しにくいんですよね。何年経っても苦しんでる人は沢山いるし、じゃあその人たちはダメなのかって言えば別にそんな事はないのです。
— dan325@若年死別者のためのグリーフ情報 griefportal.net (@dan3256) May 7, 2021
時間経過だけを当てにするのではなく、自身の努力があって、その努力にはそれなりに時間がかかってしまって、結果として振り向いたときに「ああ、時間かかったな」というのが正解です。
恋愛でフラれたということなら該当するかもしれませんが、死別の場合にはケースは当てはまらないと実体験をもって実感しています。
アドバイスした人は前者の意味で言っていたのかもしれませんが(多分違う)、そうだとしても言葉が足りないため、ひたすら耐えるのみ、みたいな時間こそ無駄でした。
自分のグリーフプロセスを振り返ると
・死別直後:感情に飲み込まれまったく制御不能
・1年、2年後:感情の模索、整理
・3年、5年後:感情の表出、表現
・以降:理論と感情の紐づけ、体系化してのアウトプットみたいな感じ。多少の前後はあるがこう見るとだいぶ変わってきたな。#グリーフプロセス
— dan325@若年死別者のためのグリーフ情報 griefportal.net (@dan3256) May 11, 2021
それよりもずっと有効だったのは言語化でした。
泣くのと同じくらい、言葉にしてた。言語化は本当に大切なのでおすすめ。哀しみを分解できると落ち着く。認知行動療法でもそうだし、自身の感情をアウトプットできるようになるとグリーフプロセスが回り出す。#死別 #グリーフプロセス #言語化 #認知行動療法
— dan325@若年死別者のためのグリーフ情報 griefportal.net (@dan3256) May 12, 2021
徹底的な言語化を行う事で見えなかったものが見えたり、不足しているものがはっきりしたりしました。泣く時間はたっぷりあったので、その時にメモに書き殴ることが理解を深めてくれます。
※ちなみに SNS やブログ等でも良いのですが、ネガティブにもポジティブにも反応があるため、心の想いをそのままに書くというのは、誰にも見られないところがいいんじゃないかと個人的には思います。
「元の世界に戻りたくない」という気持ち
そんな模索を続けながらも、自分自身でもグリーフプロセスが進み、心境や環境の変化を体験しているときに、元々「はやくこの状況から抜け出したい」と望んでいたにも関わらず、「この哀しみの中にいる自分」でもいいじゃないかと思うシーンがありました。
これは本当に不思議です。(居心地が良いというと語弊がありますが)社会復帰という言葉は大げさですが、一般社会に戻るよりもこっちの世界にいた方がいいと。あれだけ苦しかったのに、哀しみの中に浸り、泣き続けていたらいつしか楽になるんじゃないかという感覚です。
「慢性悲嘆」といったりしますが、そういう気持ちが強くなりました。
慢性悲嘆の状態にある人が喪失について語るのを聞いていると、実に気の毒な気持ちがしてくる。傷口があまりにもむき出しで、生々しく見えるため、その死が数か月からせいぜい一、二年前に起きたことだろうと想像してします。ところが、実はそれが四年、八年、あるいは十年も前のことだと聞いて、驚くことがある。
慢性悲嘆にある人を見てまず最初に受ける印象は、その人が亡くなった人なしでは生きていけそうもないというものである。故人なしでは、自分の人生に意味が見出せないのだ。一般にこういう人たちは、自分を孤立させ、ほんのわずかでも満足のいく人生を送るために、必要な挑戦を受け入れようとはしない。彼らの気持ちも思いも、すべてはその死にそそがれる。
・・・
慢性悲嘆にある人は、泣くことに抵抗はない。しかし、「手放し泣き」とも言うべき深い涙を誘う試みがされると、抵抗する。彼らは呼吸を速く、浅く、続けようとするために、「呼びかけ泣き」しかできないのだ。
※「癒しとしての痛み」から引用
※現在はまったくそういうことはなく、普通に生活できていますし、二度とあの悲嘆状態は味わいたくないと思っていますし、自分自身、「人間の心というのは本当に身勝手でエゴが強いのだ」と自分の心を覗き感じたのを覚えています。
たしかに、10年、20年経って哀しみがすぐそこにある、むき出しの状態っていうのは心身ともにとても辛いです。様々なケースがあるので一概には言えませんが、その時間で学習することがあるとの変化が起きやすいので多少なりとも解釈が進むものですが、そうなっていないが故の慢性悲嘆かと思われます。
ただこれがダメなことかといえば別にそうではないと思いますし、逆に言えば3か月でケロッとしていたら素晴らしい訳でもありません。時間はあまり関係が無く、やはりグリーフプロセスにおける必要な学習(感情、理論、実践)をしているかどうかだと思います。
いずれにしても、哀しみの中にいることが癒しになるケースもあれば慢性化(複雑化)してしまうこともあります。大切なのは悲嘆の陰に隠れている自分自身と愛する人を見つめ直すという点だと言えます。
今日はそんなことを想いながら過ごしています。