予期悲嘆から始まり、死別、そして死別後という各プロセスがありますが、特に死別後において非常に苦しかったのが、他者からの「レッテル貼り」です。
「レッテル貼り」とは何か
そもそも「レッテル貼り」とは何でしょうか。簡単言えば、
「あなたはこういう人だよね」
「あなたはいつもこうじゃない?」
「だからいつもあなたは・・・」
といった決めつけのことです。
いますよね?こういう人。完全に間違ってるのですがその人の価値観で縛ってくるタイプです。
これも一種の「認知の歪み」と言われています。
この手のタイプの人は自分の価値観が全てだと思っているので、イコールそれが正しいことであり正義であると思っています。
「苦しんでいる人のために、こうしてあげなきゃ」という価値観があるわけです。しかしそれは相手も同じ価値観でいる場合のみ有効です。そうでなければ逆に苦しめることになります。
そしてこのレッテル貼りがエスカレートすると重大な問題を引き起こします。
多くの人がレッテルを貼られていることに気づかずに苦しむ
大前提として、愛する人を失った哀しみはその人にしか理解できません。それはなぜかといえば、「死別」に至るまでの関係性や経過がユニーク(固有)のものだからです。
外からはどんなに仲良く見える夫婦でも、実はそうでないのかもしれないし、しょっちゅう喧嘩していると思っていた夫婦が実はものすごく仲良しだった、などということは良く聞く話です。つまり、外部からはひとつの側面からしか見えないのですから、それがすべてではないのですね。
にも関わらず、遺族自身もこのことを忘れてしまっています。
そこに他者のレッテルが入り込む隙が出来上がる訳です。
「亡くなったあの人だってきっとこう思ってると思うよ」
「いつまでもくよくよしてたら、あの人が悲しむでしょう」
といったセリフは私も何度聞いたことでしょう。そのたびに「ああ、そうだ、その通りだ。早く元気にならないと」と自分を奮い立たせていました。
これが大きな間違いですが、気づけないのですね。
「だから、あなたは頑張りなさい」という暗に示されたメッセージは、もうすでにいっぱいいっぱいで頑張っている自分自身をさらに苦しめるだけなのです。
レッテル貼りは他人の価値観の押しつけにしかならない
このように、レッテル貼りをされていること自体になかなか気づきにくいのですが、あくまで「他人のひとつの意見」であり、それを採用するかどうかは自分自身で決められるということを理解しておくことが重要です。
理解しておくべきなのは、「こうした方がいい」という他者からのメッセージは、そのほとんどがあなたのためではなく、「その人にとって」という主語が隠されているという事です。
このように他人の価値観を押し付けられている(こうしなければならない)状態は、うがった見方をすれば「善意の押しつけ」でしかなく、それをすべて受けている必要性はどこにもないのです。
一方で共感してもらうのは嬉しいことですが、価値観の押しつけは迷惑にしかならず、自身のグリーフワークを阻害するものにすらなってしまいます。事実、「ああ、いつまでもクヨクヨして、やっぱり自分はダメなんだな」と思ってしまうのです。
そうではありません。哀しみは自分自身がどう感じているかが最も重要であり、すぐに立ち直る必要などどこにもありません。自分のペースで死別という事実を受け入れていく方が遥かに重要です。
大きな喪失を前に、人は誰しも価値観が揺らぐ
人は誰でも(恐らく、その他者も)、大きな喪失体験をすれば自分自身が否定されたように感じます。そしてコアになっている「価値観」が大きく揺らぐのです。
生命活動が脅かされているといっても過言ではない状態ですから、そんな状態の時に他者の意見を受け入れてしまうと余計に苦しむのは明白です。遺族が「ほっておいてほしい」という心理が働くのは自己防衛本能かもしれません。
この大きな価値観の揺らぎに対し、自分以外の他者の介在はサポート、共感という側面のみ有効であり、他は逆効果になります。
グリーフプロセス上、自分自身で対処するしかありません。
周囲のできることは、本人のグリーフワークのサポートに徹するのみであり、プロのサポートがあればベターだと言えます。
「グリーフは個人のもの」なのです。それを誰も侵害することはできません。愛する人を失った哀しみを含め、その人が再構成する道筋を見つけるまでしっかりとサポートしていきたいものです。
今日はそんなことを思いながら過ごしています。