なぜ生きるのか、どうして自分は生きているのかと自問自答を繰り返し、自分自身を喪失してしまうようになり、絶望という名の闇の中を歩いているとやがて小さな光があることに気づきます。
「止まない雨はない」「夜明け前が一番暗い」といったフレーズはよく聞きますが、そんな言葉を鵜呑みにし、信じる気力すら失っている状態では何を言われても響くことはありません。
しかしそれでもあえて言わなければなりません。「希望」などという言葉は似合いませんが、小さな小さな輝きを放つ何かは見えるようになると。
愛する人と過ごした自分「以外」に気づく
少し前に以下の記事を書きました。
真っ暗な世界をひとりぼっちで、方向も分からず立ちつくし、そしてやがて分からないまま歩きはじめる、というフェーズがあります。大切な人の死は、すべてを奪い去ってしまうからです。
しかしある時、気づきました。「妻と出会う前の自分はどうだっただろうか」と。
実はそれまで愛する人を失う前、いや、出会う前の自分の存在そのものを忘れていました。そこで小学校や中学校、高校、大学と過ごした自分を思い出すことができました。
また家族や当時の友人の存在などを改めて思い返すようになりました。彼らのなかにいた自分はどんな人間だったのだろうかと。
そうです、そこでようやく「妻がいてもいなくても自分は存在していた」という単純な事実を再認識したのです。
妻に出会う前の自分、出会ってからの自分
「自分はどんなことが楽しかったのか」「誰と親友だったっけ」といったことを忘れてしまっていたため、改めて思い出してみるとやはり悲しみに隠れた記憶の中には確実にあります。
その中に、元々の「自分らしさ」が備わっていたはずです。それは妻に出会う前の自分が獲得したものであり、妻がいてもいなくても(出会っても出会わなくても)、それ自体はなくならないはずのものです。
つまり、死別したことによってあらゆるものを喪失したと思っていた自分にも、まだひとつ残されていたのだということが認識できた時でした。
そしてもっと大切なことは、「妻はそんな自分を好きになってくれたはず」ということです。
これは大きな発見でした。
もしそうであれば、妻と出会う前の自分を認識すること、そしてそれを再び思い出し行動することはできる。
「今は動けないけど、エネルギーがゼロになったわけではない。妻と出会ったからこそ、自分が変わった部分はあるけれど、元々持っていた良い部分に気づこう」という気持ちが出てきました。
これが真っ暗闇の中で気づいたヒントでした。そして精神的にギリギリのところでかろうじて自分を保つことができたのはこの考えがあったからです。
妻に出会う前の自分と、彼女に出会ってからの自分が妻の死によって覆い隠され、そして分断されてしまっていましたが、もっと俯瞰し、連続性を持たせることができると見えなかったものが見えるようになります。
結果的に、ここに行きつくまでに3年くらいはかかっていますが、だとしてもそれは早い遅いの問題でもなく、自分らしさ、自分のペースでそこに行きついたことに価値があります。そのタイミングでなければならなかったのかもしれません。
自分というものを再評価することができるとき、そこには小さな光が差しこむのかもしれません。
今日はそんなことを想いながら過ごしています。