若年死別、という括りは面倒なもので、年を取ってからの死別とは若干違い(※)があります。
若干の違いと言いつつも、そこが理解されないが故の弊害も大きいのは事実なので、その部分をしっかり見極めたいところです。
※どちらがより哀しいという話ではないのでご注意を。
若年で死別するということはどういうことか
まず初めに「若年」の定義が必要ですが、これは厚生労働省のサイトに「若年の労働者」を見ると、
調査基準日現在で満15~34歳の労働者をいう。
https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/4-21b.html
と書いてあります。これは「若年」の「労働者」という厚労省の定義なのであくまで参考ですが、この間に伴侶を喪失するとなると若年で死別したということは言えると思います。
※40歳でも45歳でも若年という人もいますしそれに明確な反論はありませんが、例えばこれが 80歳で若年死別という話になると正直なところ、違和感を感じざるを得ないのもまた事実です。
※実際のところ「年齢による若さ」は物差しの一つに過ぎないため、反発を覚える人もいると思いますが、一般的な概念で語ることによって分かりやすさがあるため、ご了承ください。
伴侶と過ごした時間
さて、私自身も当時若年だったので若年死別体験者、遺族と名乗るのは問題なさそうです。その上で若年で死別することによるデメリットをまとめてみます。
今まで過ごした時間の短さ
まずはこれでしょう。仮に、30歳で結婚し、33歳で亡くなったとしたらお付き合いの時間を含めてせいぜい 4年、5年です。結婚をするということは将来を共にする約束をするわけですから、20年、30年を夢見るわけですね。
人生 100年時代なんて言えば、70年くらいの先まで(一瞬でも)夢見るわけです。
70年間を共に、、、とイメージしたにもかかわらず、実際は 5年(結婚期間だけなら 3年)となると、この差はあまりにも大きいですよね。
5年で作り上げることができる思い出と、70年かけて作る思い出とでは、質はともかく絶対量が足りません。
関係性(関係値)や質は、必ずしも経年と比例するわけではないのですが、量→質に転化する要素も外すことができないため、ある程度の量は必要だという結論は変わりません。
つまり、「今まで過ごした3年、5年という時間は2人にとってあまりにも短く、儚いもの」と言えるでしょう。経年により夢だったのではないかと思うことさえあるかもしれません。(これはこれで哀しい事実)
これからの時間の長さ
そして今までの時間が短かったということは、逆を言えば「これからが非常に長い」ということです。上述の例の場合、70年連れ添うはずだったのが、仮に再婚しなければ、65年は独りで生きるわけです。とてつもなく長く感じるでしょう。
これはなかなかヘビーな状態です。特に死別直後は気が遠くなるような時間に感じます。そしてこの時間の長さに圧倒されてしまい、自身も心身ともに体調を崩したりするケースもあります。
不安だからこそ、今ではなく未来を見てしまうのですね。
現在と未来の喪失
つまり、図にするとこういうことです。一般的な「結婚、出産、子育て・・・」といったプロセスが消えてしまい、残されたのは空白部分のみ。
若年での死別、喪失体験はこの「完全なる空白」をどのように埋めるのかということになります。「こうなるはずだった」という想定の世界のイベントを失い、そしてその失った空白を埋めることができない不安に苛まれていく若年死別は、やはり高齢での死別とは大きく違うと言えます。
「これまで一緒にいた時間の短さ」と「これからのひとりの時間の長さ」に絶望する
私自身もまさにこれで、「これまで一緒にいた時間の短さ」と「これからのひとりの時間の長さ」に完全に絶望していました。不安が不安を呼び、恐怖心が大きく日々を過ごすことが困難になるほどでした。
にもかかわらず、他者はこの「完全ある空白」を意味のない励ましで埋めようとします。時間を持て余す状態が続きます。
そんな状態ですから「高齢での死別はまだマシだ」というひねくれた(比較する)考えを持ち出してきます。実際には比較すること自体がおかしいのですが、一般的な時間軸から考えると若年死別はあまりにも理不尽で受け入れがたいものであるため、こういった思考が強くなります。
ただし、比較しなくなっても単純に時間量が考えると、若年死別というのは上記の図のように二人でいる絶対時間が少ないため、「思い出があるから哀しい」という哀しみと、「思い出を作れないから哀しい」という哀しみとは種類が異なるのは間違いなさそうです。
フォーカスするのは未来ではなく「今」
では、「完全なる空白」をどうすればいいのでしょうか?
残念ながらこの質問自体が間違っていることに気づくのに何年もかかりました。この先どうしよう?どうなっちゃうの?という不安は、実はあまり意味がないことに気づきます。
それよりも「今日、この1時間、この1分をどう過ごすか」に集中すべきです。
明日のことも来週のことも、来月、来年も心配しても何も変わりません。心配するだけ無駄です。それは逆説的ですが、「まさか愛する人が死ぬとは思わなかった」という事実が証明しているからです。
つまり、先のことを心配してもどうにもならないということですから、今、この一瞬をどうするのかをしっかり考えたほうが良いし、小さな行動をしやすくなります。
大きく考えてしまうと苦しいし、若年死別特有の苦しみもあります。しかしそれでも、今にフォーカスすることがいかに大切かということを教えてくれるのは、他ならぬ大切な人だったはずです。
今日はそんなことを想いながら過ごしています。