グリーフへの理解が徐々に進んでくると、日常生活に新たなリズムが形成されていきます。
「大切な人の不在」が生活の中に組み込まれていくことになります。
例えば家族の中で旦那さんが亡くなれば「旦那さんが亡くなった状態」を前提として家族の役割は変わっていきます。
哀しみはゼロにはならない
このように私たちは家族内での役割を徐々に変え適応していく事になります。
それは簡単なことではありませんが、仕方のないことでもあります(仕方ないと割り切れるかどうかが重要)。ただこれは周囲からすると「ああ、もうすっかり立ち直ったんだね」と見えてしまう訳で、ここに大きなギャップができることになります。
何でもないときにふとこみ上げてくる哀しみは徐々に間隔があいていくのだけれど、それは哀しくなくなったわけではなくて「哀しまなくていい時間」が増えただけ。冷静でいられる時間が増え、自分の新しい生活に集中できる時間が増えたってこと。それは悪いことじゃないし、亡き人を忘れた訳じゃない。
— dan325@若年死別者のためのグリーフ情報 griefportal.net (@dan3256) September 12, 2021
総時間の中で「哀しい時間」の割合が変わっただけで哀しくなくなったわけではないのです。それを周囲に理解してもらうのは困難でしょう。このギャップがあるからこそ、周囲との関係性の断絶があったり心無い言葉をかけられて傷ついたりするわけですね。
とはいえ、哀しみは決してゼロにならないということを周囲に理解してもらうために、そこにどれだけのパワーを費やすかというのは個人差があるでしょう。
哀しみが押し寄せる頻度というのは、グリーフの理解と共に徐々に間があいていきます。
ちなみに、私の場合は途中で「理解してもらうのは無理だ」と気づいてしまい、「分かってもらえなくてもいいや」と思うようになりました。
ふとやってくる哀しみを捉えて味わうようにする
1日の中における哀しみの頻度が少なくなってくると、逆に哀しい感情が湧いてきたときにしっかりと愛する人を想い出せるようになります。
「逢いたいな」と思いますし、「やっぱり哀しいなあ」と感じます。でも「彼女の居ない生活」というのはすでにあって、それは継続しています。その両方の世界を行き来することになります。
死別当初には「彼女が居なければこの世は不完全だ」と思っていましたが、彼女が居た世界と今の世界はどちらも完璧だと思えるようになりました。
そしてその最中にやってくる「哀しみ」は時に「寂しさ」だったり「切なさ」にもなりますが、その感情こそが今の人生と彼女の居た人生をつなぐ接続詞の役割を果たしているのだと思うようになりました。
どちらも大切な世界であり自分の人生です。断絶を感じたのは事実ですが、今は努力の末、接続できるようになったと感じています。
何年経っても哀しいときには涙が出ます。号泣はしないけどスーッと涙がこぼれるときはあります。「いつまでも引きずっているんじゃない」と言われそうですが、常時その状態ではなく「哀しみを感じている時間」があるだけです。
お墓参りに行って墓前で手を合わせる時、亡き人のことを思うのと同じです。お仏壇に手を合わせる時に亡き人を思うのと同じです。
ふとした時にやってくる「その瞬間」に、心の中で手を合わせ祈り、感謝し、愛を伝えることができるのだと思うのです。
今日はそんなことを想いながら過ごしています。